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畏友T氏による「原発雑考」

無理、無茶、無体な再稼働 

野田政権は、大飯原発3、4号機を夏までに再稼働させることに必死だ。
 ストレステスト1次評価だけでは不十分と原子力安全委員会にいわれて、
泥縄式に暫定安全基準を作り、
それにもとづいて両機の「安全性」が確認されたとした。
暫定安全基準は、福島事故直後に保安院が作成した緊急安全対策の焼き直しで、
再稼働に支障をおよぼさない範囲で安全策を講じることを求めているにすぎない。
これでは、安全を大前提にして原発を推進すると称しながら、
実は原発の推進を大前提にしてその枠内でのみ安全策を講じていた
3.11以前の原発安全政策となんら変わらない。
 再稼働について同意を求める地元自治体も、
大飯町と福井県だけに限ろうとしている。
これも、福島原発事故は存在しなかったかのような扱いである。
 政権は、再稼働には必要性もあるとしているが、
その根拠をはっきりさせていない。
一般にはこの夏の電力不足問題だと受け取られているが、
説得力のあるデータを示していない。
それよりも重要なことだが、
もしこの夏の電力不足が再稼働の必要性の根拠だとすれば、
稼働するのは夏のあいだだけで十分で、秋にはまた止めることになるはずだ。
しかしそうではなさそうだ。
 けっきょく夏の電力不足はたんなる口実で、
狙っているのはほとんどすべての原発を再稼働させることだと推測される。
とはいえ大飯3、4号機以外に再稼働できそうな原発はない。
原発規制機関の再編が滞っていて、安全審査が進んでいないのである。
大飯3、4号機再稼働のための強引な手法が
全社会的に猛烈な反感を買っていることも、
先を見えなくさせている。
 成算も先の見通しもなしに大飯3、4号機再稼働にのめりこんでいるように見える。
ここに来て、枝野経産相や前原民主党政調会長が
40年後の脱原発という空手形を切っているが、
いまさら誰も信用しない。
 何が野田政権をここまで狂わせたのか。
原子力利権集団の圧力か、
想像力の欠如から生まれる原発なき世界にたいする恐怖か。

原発停止のコスト問題 

原発再稼働の理由として挙げられるのは、
再稼働しなければ電力不足になることと、発電コストが増加することである。
前者については前号で論駁した。
本号では後者について論駁する。
 政府(経産省)は、原発が全機停止してLNG火力でそれを補うことになると、
9電力あわせて燃料費が年間3兆円増加するといっている。
 これは、従来の原発発電量がそっくりLNG火力で
肩代わりされることを想定した見積もりである。
しかし実際には、全機停止になれば節電が広く行われることになる。
その結果消費電力量が減り、LNG火力による肩代わり分も減ることになる。
燃料費3兆円増加というのは、過大な見積もりである。
 そもそも電力の燃料費については、
電力各社のLNG購入価格が国際的に見て異常に高いという問題がある。
西欧諸国や韓国に比べて、購入単価が1.5倍から2倍といわれている。
これは、地域独占と総括原価方式による料金決定に守られて、
電力各社が殿様商売をしてきた結果である。
(なお、都市ガスを含む公共料金の多くは、
総括原価方式で料金が決定されている。
しかし都市ガスにはプロパンや灯油という手強い競争相手がいるので、
野放図に高い料金にすることはできない。
地域独占で競争相手のいない電力の料金が
総括原価方式で決まっていることが問題なのである。)
 2009年度の統計ではLNG火力の年間発電量は
2739億kWh、原発は2797億kWhで、
ほぼ同じである(ともに電力会社の総発電量の約30%)。
したがって、LNG調達価格を西欧や韓国並みに引き下げれば、
原発を全機停止してもLNG購入費用の総額は、
ほとんど増えない計算になる。
相手があることだからいますぐ半値にすることはできないだろうが、
徐々に安くして15年程度かけてそこに持って行くことはできるし、
やらねばならないことである。
 旧式の火力発電を発電効率の高い複合LNG発電に置き換えることによっても、
LNG購入量を減らすことができるし、
節電と再生可能エネルギー利用発電の拡大によってもLNG購入量を減らすことができる。
 これらのことを総合すると、
原発全機停止による年間の燃料費の増加は、
初年度で2兆数千億円、それが徐々に減って10年ほどでゼロにできる。
その後はさらに購入価格は下がり、
購入量は減るので、燃料費は3.11以前よりもかえって減少するはずだ。
つまり、電力会社がまっとうな経営努力をしさえすれば、
燃料費は一時的に増加するだけであり、
その増加分も将来の減少分によって吸収されるのである。
 他方で、原発が停止すると原発の運転に関連するコストが発生しなくなる。
原発停止によるコスト増を主張する者たちは、
この原発停止によるコスト減については口をつぐんでいる。
これはフェアでない。
 原発停止によって減少するコストには、
原発の運転に直接必要なコスト、
放射性廃棄物処理のコスト、および事故のコストがある。
これらのコストには、電力会社が負担するものだけでなく、
税金よって負担されるもの、
さらにはだれも負担しないものも含め、
原発の維持と運転にかかわって発生するすべてのコストが含まれる。
 全機停止が一時的ではなく、
永続することになれば、
原発および核燃料サイクル政策の推進のためのコストも不要になる。
 全機停止のコスト問題は、
けっきょくは原発が高コストの電源か
低コストの電源かという問題に帰着する。
高コストなら早く止めたほうが経済的にメリットだし、
低コストなら逆だ、ということである。
 そしてこの問題はすでに結論が出ている。
放射性廃棄物処理のコスト、
事故のコストおよび原発・核燃料サイクル政策推進のためのコスト
(原発立地のための費用、高速増殖炉開発費、原発広報費など)を
除外すれば、原発は他電源に比べて低コストである。
しかし、放射性廃棄物処理のコスト
(不確定要素が多すぎて正確な計算は困難であるが、
きわめて大きな額になることは明らかである)と
原発・核燃料サイクル政策推進のためのコストを
加えれば、原発のコストは火力発電と同等か、それ以上になる。
 さらに事故のコストが加わる。
福島原発事故のケースでは、
環境省が除染の必要を認めている年間被曝線量1㍉シーベルト以上の
土地11,600平方キロを原状回復するための費用だけで
数百兆円になる(神通川流域のカドミウム汚染農地の
除染単価5.3万円/㎡を援用すれば、615兆円)。
それによって原発の発電単価は1kWhあたり数十円アップすることになる。
 要するに単純な話であって、
原発はトータルではきわめて高コストの電源だから、
一刻も早く止めたほうが、たとえそれによって
一時的に燃料費が増加するにしても、
けっきょくはコスト的に有利になるのである。
 ちなみに、いますぐ脱原発すると電力会社が
保有する原発関係資産は使い道のない遊休資産になる。
しかしその額はあまり大きなものではない。
2011年3月末現在で、中部電力の原発関係の固定資産は2694億円にすぎない。
いっぽう中部電力は、連結ベースで1兆円を超える利益剰余金を保有している。
原発関係の固定資産をすべて銷却したとしても、
財務に致命的な影響をおよぼすことはないのである。

雑 記 帳 

学年開始の4月は毎年ばたばたするが、
今年は、名古屋に建てられた新校舎に勤務替えになったので、
なおさらである。
新校舎は設備も準備も不十分で、
出校するたびに事件が起きている。
 ここでいう学年は、
「学年別」という場合の学年ではなく、
暦の1年間とは異なる学校の1年間のことである。
この学年の変更(秋開始への移行)が話題になっている。
留学の便宜を計るというのが、主な理由のようだ。
 中世ヨーロッパで学芸の中心はイタリアの大学だった。
中、北欧からイタリアに赴くにはアルプスを越えねばならないが、
夏以外の季節のアルプス越えは危険だった。
それでイタリアの大学は、
秋開始・夏前終了という学年制を採るようになった。
これが秋開始の学年制の始まりだという。
 遠方からの遊学生の便宜を図ることが、
学年制を決める理由だったとしたら、
留学生の便宜のためにといういまの議論と通じるところがある。
 とはいえ、中世ヨーロッパの大学と現代の大学、
とりわけ私の勤務校のような非ブランド校とでは、
なにもかもが違っている。
留学生の便宜を考えて学年制を決めることには、
あまり賛成できない。

# by hamanatume | 2012-05-05 21:20 | no nukes 

畏友T氏による「原発雑考」

「不毛の対立」

 原理的思考・原理的対立が毛嫌いされる日本では
「不毛の対立」というレッテルは受け入れられやすく、
そのため乱用されがちである。
原発問題についても、原発推進派と脱原発派の不毛の対立ということが
よくいわれるが、この「不毛の対立」論は要警戒である。
 不毛の対立という場合、
プロセスの不毛と結果の不毛を分けて考えるべきで、
プロセスが不毛なら、ほぼ結果も不毛になる。
したがって、プロセスが不毛かどうか、
そうだったとしたら対立するどちらの側により大きな責任があるのか、
ということを見極めることが肝要である。
それをしないで結果の不毛だけを見て、
けんか両成敗の評定をするのはおかしい。
 日本の原発政策は、原発利権集団(原子力ムラ)によって
異論を排除、抑圧しつつ推進されてきた。
脱原発派は、圧倒的少数ではなかったし、
現実の原発政策には反対である慎重派と合わせると、
つねに半数近くかそれ以上の勢力を保っていた。
それにもかかわらず原発政策の決定と実行にかかわる
議論の場から脱原発派や慎重派は、一貫して排除されてきた。
推進派は公開の場での討論はいうまでもなく、
非公式の話し合いにすら応じようとしなかった。
行政権力をバックに巨大な力を持つ推進派が一切の対話に応じない以上、
脱原発派には原理的反対の態度を取る以外に術はなかったのである。
 「不毛の対立」論は、このような実態を覆い隠すことによって、
独断的、強圧的に原発を推進してきた推進派を救済することになっている。
結果としてそうなっているというよりも、
はじめからそれを意図した論であろう。
この論が、推進派が窮地に立つようになった3.11以後に急に聞こえ始めたことが、
そのなによりの証拠である。
 3.11まで原発問題に頬かむりしてきた人が、
そのことを弁護、正当化するためにこの論を利用するケースもある。
「不毛の対立を続けていたから、関わりようがなかったのだ」という弁解がそれである。

電力不足?

 政府・電力会社・産業界は、この夏の電力不足回避のために
原発再稼働が必要であると主張している。
この主張を根拠づけるには、予想される最大電力需要はどれほどか
・原発抜きの電力供給力はどれほどか・
電力不足回避のために動かす必要がある原発はどれほどか、
といったことが示されねばならないが、これらのデータはまったく示されていない。
そこで、昨年夏の実績を手がかりに電力不足論の真偽を検討する。
 昨年夏の全国の最大電力は、8月10日の午後2時から3時にかけての
1億5660万kWだった。
この最大電力にたいして、なお1800万kWの供給余力があった。
この時稼働していた原発は15機で、出力合計は1325万kWである。
 したがって仮に原発が全機停止していたとしても、
まだ475万kWの供給余力があった計算になる。
ちなみにこの日は火曜日で、自動車業界が「節電」のために
実施していた平日休業の日ではなかった。
つまり自動車業界の節電努力が行われていない日だったが、
それでも問題はなかったのである。
 しかも実際には、需要が供給力をオーバーしてもただちに停電するわけではない。
そのことは、昨年夏に各電力会社が毎日発表していた
「でんき予報」の数字の奇妙さに気づいた多くの人の追及によって、
電力各社も認めている。
 電力会社が発表するそれぞれの日の電力供給力は、
その日の予想最大電力に対応するために準備した供給力(準備供給力)であって、
その時点での最大限の供給力(限界供給力)ではない。
限界供給力と準備供給力の差を構成する主な要因は、
揚水発電と一般ダム式水力発電の発電余力であるが、
電力会社がこれらの発電所の運用データを公表しないので、
その正確な計算は不可能であるが、百万kWの桁であることは間違いない。
 さらに需要が供給力をオーバーしそうになると、
あらかじめ希望する大口需要家と結んである
随時調整契約(緊急時に電力会社の一存で電力供給をストップできる契約。
代償として契約企業は通常時の電力料金が割り引かれる)を発動することで、
全国で数百万kWの需要をカットすることができる。
 これらのことから、昨年夏には仮に原発が全機停止していたとしても、
実質的にはまだ1000万kW以上の供給余力があったと見なすことができる。
 加えて昨年夏以降、電力供給力は増強されている。
第一に、昨年夏には東日本大震災と7月の豪雨で東北・関東の
多くの火力発電所と水力発電所が被災して、
停止していた。
それらの発電所はこの夏には稼働している。
第二に、電力各社の発電能力が昨年夏に比べて増強されている。
中部電力についていえば、上越火力1号系列119万kWが
7月には運転されている(一部は営業運転、一部は試運転)。
第三に、企業の自家発電も増強されている。
新増設だけでなく、休止中の自家発電施設を再運転する動きが広がっている。
 資源エネルギー庁はこれらの電力供給力増強の詳しいデータを持っているはずだが、
公表していない。
 節電も期待できる。
昨年夏は、評判稼ぎが目的で実効のない節電が多かった。
その代表例が勤務時間の変更(個別サマータイム)である。
勤務時間の変更は、事業所の消費電力を減らすが、
それ以上に家庭などの消費電力を増やす。
節電に取り組まなかった家庭・事業所も多かった。
節電を進める余地は十分にある。
計画されている電力・電気料金値上げも節電に取り組む強力なインセンティブになるだろう。
 以上のことから、原発を全機停止しても、昨年並みの暑さならいうまでもなく、
過去最大級の猛暑になったとしても、
電力不足にはならないと考えられる。
ただし、各地で最高気温が40度に達するような猛暑日が連続するとか、
大出力の火力発電所が相ついで運転停止するとかの異常事態が発生すれば、
電力不足になる可能性がないとはいえない。
 このような異常事態に備えるには、
原発10機程度をいつでも起動できる状態で待機させておけば十分である。
原発は、即応性に欠けるとはいえ、起動から1日で40%程度の出力に、
2日で100%出力になる。異常高温は1、2日前にはある程度予測できるし、
大出力火力発電所の運転停止などの突発事態にたいしては、
揚水発電・一般ダム式水力発電の投入、随時調整契約の発動などによって
2日間程度は凌ぐことができる。
 万一異常事態が発生して原発を動かすことになったとしても、
運転が必要なのは、異常事態とその余波が解消するまでの期間に限られ、
せいぜい2週間程度だろう。
来年以降は、供給力の増強と省エネの進行によって、
どんな事態になっても原発なしで乗り切れる可能性がいっそう高まる。
 以上のように、電力需給のデータを出せば、
原発稼働は実際にはほとんど不要であることが判明する。
だからデータは出さず、ただただ電力不足を煽っているのである。
その先にあるのは、ほとんどすべての原発のなし崩しの再稼働である。
これは3.11以前への回帰にほかならない。
 伴英幸さんの報告によれば、政府の原発関係の諸委員会で
電力不足論は最近では影を潜めているという
(『原子力資料情報室通信453号』 2012年3月1日発行)。
ある程度は専門的議論が可能な場に電力不足論を持ち出せば、
かえってやぶ蛇になることに推進派の委員たちも気づいたのだろうか。

雑 記 帳 

この冬は寒くて、3月下旬に真冬のような日があった。
地球温暖化はどうなったのかという声もあるが、
北米東部や西欧は暖冬だった。
身近な気象の異変と地球規模の気候変動とは別物で、
温暖化が止まったわけではない。
 寒さのせいで全国的に梅の開花時期が遅れたようだが、
近辺でもまだ花をつけている梅の木が多い。
庭のハクモクレンもやっと花弁が開き始めた。
 冬鳥も異常に少なかった。
庭でジョウビタキを見たのは一度だけ。
ツグミもほとんどいない。
例年と変わらないのは、留鳥のメジロだけだった。
渡りの冬鳥たちはどうなったのだろう。
寒さを避けてもっと南に行ったのか。
それとも、放射能を避けて日本には来なかったのか。
 ツバメも、早い年なら3月10日過ぎ、
遅くとも3月下旬には見かけるのだが、ことしはまだ見かけない。
 ツバメはそのうちに飛来するだろうが、
わが家の巣で産卵、育雛するかどうか、心配している。
というのは、昨年雛が親鳥ともどもカラスに襲われたからである。
巣を補強し、カラスよけの仕掛けを準備して待っているのだが、
はたして来てくれるだろうか。

# by hamanatume | 2012-04-10 21:03 | no nukes 

畏友T氏による「原発雑考」

人口減少社会 

1月に将来の日本の人口推計が発表された。
それによれば、出生率・死亡率がともに中位であった場合の人口は、
2030年に1 億1662 万人、2048年には1 億人を割って9913 万人になり、
2060年には8674 万人になるとされている。
 この推計結果を報じたマスメディアは、
総じて人口減少する将来の日本社会について悲観的な見方を伝えていた。
しかしそれは的外れである。
 50年前とは異なり、現在では若年層が多くなければ経済が成り立たないということはない。
正規労働者であれ、非正規労働者であれ、膨大な数の若者が使い捨てにされている現状が、
そのことを残酷なかたちで示している。
 人口減少社会になれば、それに対応した社会システムにすればよいのである。
人口減少社会を悲観的に捉えるのは、
人口増を前提にした社会システムと社会意識を基準にしているからである。
それは、原発を織り込んだエネルギー需給構造を前提にして
原発がなければやっていけないと考えるのと同じく、
まったくのナンセンスである。
 人口が減少すれば、エネルギー消費と環境負荷が軽減する。
これは大きなメリットである。
たとえば、死亡率・出生率がともに中位の場合、
2032年の人口は2010年より10%減少するとされている。
その結果、1人あたりのエネルギー消費量に変動がないとすれば、
2032年に消費される総エネルギーは2010年よりも10%減ることになる。
原発は、2010年にエネルギー供給全体の10%程度をまかなっている。
したがって、1人あたりエネルギー消費の削減や原発以外のエネルギー供給の拡大の必要なしに、
人口減少の効果だけで20年後に原発を全廃することができる勘定になる。
 世界的には人口増が大問題になっている。
戦争や疫病によってではなく平和的に人口が減ることは、
まことに結構なことではないか。
人口減少が危機なのではなく、
人口減少という現実に合わせて社会システムを再設計する発想を持てないことが危機なのである。

私にとってのこの1年 

 昨年 3月11日の昼下がり、私は二日酔いの冴えない気分で
机に向かってパソコンを動かしていて、何かをしようとして椅子から立ち上がった瞬間、
ぐらりと体が揺れた。
一瞬、二日酔いのせいと思ったが、揺れが続いたので地震だと分かった。
揺れ方から、遠くの大きい地震のように感じられた。
パソコン作業が一段落したところで居間のテレビをつけたら、
東北地方太平洋沿岸に大津波警報が発令されたことが繰り返しアナウンスされ、
大津波来襲直前のいくつかの港の様子が映し出されていた。
 地震と原発事故についての以後の経過は周知のとおりである。
 1号機が爆発した12日から数日の間に、首都圏や地元に住む知り合いから
避難の是非についての問い合わせが何件かあった。
私は、絶対避難すべきであるというほどの線量ではないこと、
避難にも直接間接にさまざまなリスクがあること、
年齢によって被曝の影響は異なることを説明し、
自分で判断するようにアドバイスした。
福島原発事故そのものについて私がまず思ったのは、
悲劇的な事故であるが、いくつかの幸運に恵まれて破滅的な事態には
至らなかったということである。
電力の需要期でなく、福島第一原発の6機の原発のうち
出力の小さい3機しか動いていなかった。
風が基本的に陸から海に吹き、放出された放射性物質の大半は
海のほうに流れた。
この二つの幸運(それは地震が3月に起きたことによる)が大きかった。 
 この事故は、放射能汚染、被曝にかかわる問題と脱原発、
エネルギー社会のありかたにかかわる問題という、
どちらも複雑多岐にわたる二つの問題群を生み出した。
私は、両方に関わることはとうてい無理に思えたので、
後者の問題に集中することにした。
 省エネと再生可能エネルギー利用の促進、
および高効率のLNG火力発電を一時的に活用することで、
可及的速やかに持続可能な脱原発を達成すべしというのが、
この問題についての私の主張である。
即時脱原発ができればそれに超したことはないが、
なにがなんでも即時脱原発ということではない。
 コストにせよ電力供給にせよ環境負荷にせよ、
原発が他の電源よりも優れているといえるのは、
過酷事故が起きないという前提があってのことである。
低い確率であっても過酷事故が起きることを織り込むと、
これらの優位性はたちまち吹き飛んでしまう。
それは、福島原発事故が現在進行形で示しているところである。
 それにもかかわらず、政治家、官僚、企業経営者のほとんど、
学者・専門家、ジャーナリスト、大企業労組幹部のかなりの部分が、
いまだに原発利用の必要性を主張している。
その中心は、原発利権による甘い生活を忘れられない原子力ムラの村民たちであるが、
それ以外にも、福島原発事故によって開示された新しい現実を受け入れることができず、
原発神話にしがみついているだけの者たちも少なくない。
福島原発の事故の発生と拡大に直接、間接に責任がある者たちの中で
明示的なかたちで責任をとった者は皆無に近い。
これも異様なことである。
 福島原発事故は、日本のパワーエリートたちの腐朽、
無気力と倫理感の欠如のひどさをあらためて思い知らせた。
 原発推進派の安全神話に社会全体が騙されていたという
一億総懺悔のような議論もあった。
しかし少なくともチェルノブイリ原発事故以降においては、
原発問題は日本においても重要な社会的対立点の一つであったし、
そこで原発が真の意味では社会に受け入れられていなかったからこそ、
推進派のなりふりかまわぬプロパガンダが必要だったのである。
安全神話に社会全体が騙されていたというのは、事実に反している。
 一億総懺悔論は、当人が原発問題を避けてきた、
見て見ぬふりをしてきたことを隠すための責任回避の議論である。
安全神話にすっかり騙されていたという言説自体が、
原発をめぐる神話の一つである。
 各種の世論調査では脱原発の声が時とともに高まっている。
朝日新聞の昨年4月の調査では脱原発支持はわずか11%だったが、
今年2月の調査では66%(反対は23%)になっている。
全体の三分の二、賛否を明らかにした人については四分の三という
圧倒的多数が、将来の脱原発を支持している。
パワーエリート層とは逆に、
社会全体では原発神話からの解放が着実に進んでいることが分かる。
福島原発事故が見せつけ続けている原発事故の恐ろしさと、
原発がなくても停電するわけではないことが理解されつつあることが、
その大きな理由であろう。
 原発神話が瓦解したので、いずれ脱原発に至ることは不可避である。
問題はそのプロセスである。
原発推進派が脱原発の不可避性を認め、
社会的合意による脱原発に向かうのか、
あるいは、認めることを拒否して原発推進に固執し、
それがもたらす長くてすべてを消耗させる争闘の果てに
けっきょくは脱原発に至るのか。
この二つの道のどちらが選択されることになるのか。
それは、原発問題を超えて日本社会の将来を決することになるだろう。
 福島原発事故から1年のいま、私はそう考えている。

雑 記 帳 

1年ほど前から、少し窮屈な姿勢を続けていると
ふくらはぎや太腿にけいれんが起きるようになった。
老化で筋の柔軟性が低下したせいだろうか。
 足を伸ばしてつま先をそり返せば、1分以内にはほぼ収まるので、
家の中など体を自由に動かせるところで起きても、
大して困ることはない。
しかし自由に動かせない状態で起きると、なかなか大変である。
 そんな目に今年になって二度遭った。
1月の脱原発世界会議(横浜)と、
2月の大飯原発運転再開に反対するびわこ集会(大津)においてである。
どちらの会場も超満員だった。
広いとはいえない座席に荷物とコートを抱えてあまり身動きできない姿勢で座っていて、
太腿のけいれんに見舞われた。
足を伸ばすことができず、座ったまま太腿の裏側を手でマッサージしながら、
けいれんが収まるまで痛さをこらえているしかなかった。
 かつての原発関係の集会はどれも閑散としており、
座席にはゆったりと座ることができた。
そのためけいれんが起きる可能性は低かったし、
起きたとしても処置に困ることはなかった。
いまはそうではない。
脱原発の機運の盛り上がりは結構なことだが、
それで具合が悪くなった面もあるのである。

# by hamanatume | 2012-03-05 20:41 | no nukes 

畏友T氏による「原発雑考  原発全機運転停止」

 日本には54機の原発がある。
このうち8月25日の時点で運転中は13機にすぎない。
この13機も来年夏前までにすべて定期点検に入る。
このまま定期点検済み原発の運転再開ができない状態が続けば、
来年夏にはすべての原発が運転停止になる。
 東北地方太平洋沖地震と巨大津波、
およびそれによって発生した福島第一原発の苛酷事故によって、
それまでの原発安全基準は完全に破綻してしまった。
現時点において国内のすべての原発は、
安全性が確証されていない状態にある。
安全性が確証されていない原発は運転されてはならない。
 この原則からすれば、
停止中の原発の運転再開が不可であるだけでなく、
運転中の原発も止めなければならないはずである。
しかし運転中の原発を止める権限はどこにもないので、
止まらないのである
(浜岡原発は、菅首相の要請を受けた中電自体の判断で止められた)。
原発立地県の知事と立地市町村長は、
運転中の原発を止める権限はないことにかこつけて、
すべての原発を止めるかどうかという
やっかいな問題から逃避しているともいえる。
定検済み原発の運転再開は認めないとしながら、
定検済み原発よりも危険性が高いはずの運転中の
原発を止めることを要求しはしないからである。
 定検済み原発の運転再開の動きが唯一あったのが、
九電玄海原発である。
ここは、運転再開の同意が必要な地元首長は
佐賀県知事と玄海町長の二人だけで、
二人とも運転再開に積極的だった
(玄海町を除く周辺市町村はこぞって再開に反対していた)。
電力会社・推進派にとって絶好の条件だったのだが、
九電のヤラセ問題の発覚で頓挫してしまった。
その上に佐賀県知事と玄海町長は原発マフィアの一味であることが露見し、
いまや玄海原発は、運転再開からもっとも遠い存在になってしまった。
 運転再開には新しい安全基準が必要である。
それは、今回の地震・津波とそれが原発(福島第一だけでなく、
福島第二、女川、東通、東海第二も含む)に及ぼした影響を厳密に検証し、
そこから得られた知見が反映されたものでなければならない。
さらに、新しい安全基準が社会の信頼を勝ち得るには、
これまで原発政策を壟断してきた原発マフィアたちが
策定作業から完全に排除されねばならない。
策定のための時間も数年は必要だろう。
 もっと根本的な問題もある。
日本地震学会の会長は、
「今の地震学であらゆる地震の起こり方を想定することは難しい。
何が起こるかわからないということを今回、学んだ」
(朝日新聞8月17日)と述べている。
各原発サイトにおける最大地震がどれだけの規模になるのか、
わからないということではないか。
そうだとすると、安全基準を決めることなど、どだい無理である。
現在準備されているストレステストなるものは、
当然のことながら今回の地震・津波と原発事故から
得られるべき知見を反映させることができないし、
原発マフィアの頭目である電力会社が実施し、
子分の保安院が審査する仕組みだから、
結果について社会の信頼を得ることは難しいだろう。
ストレステストの結果には拘束されないと明言している立地県の知事もいる。
 まやかしの暫定基準のようなものでカモフラージュしつつ、
実際はカネと圧力で地元自治体から運転再開の同意を取り付けるという、
従来型のやり方も、もちろん不可である。
 ではどうすればよいのか。迂遠なようでも、
原発・エネルギー政策の基本方向を決めることである。
原発の新増設と老朽原発の延命はありえず、
原発を主要電源として維持することは不可能である。
温暖化防止のためのCO₂排出削減も必須である。
この二つの必然を前提にすれば、
論点は、脱原発のスピードと、脱原発にいたる過程で
どの電源にどれほど依存すべきか、ということに絞られる
(これらの問題についての私見は改めて示す)。
 現実を踏まえて考えるならば、
将来の原発・エネルギー政策についての
選択の幅はあまり広くはない。
一定の時間をかけて誠実に議論すれば、
合意形成は十分に可能である。
この合意をバックにして、
立地県・市町村の首長・議会・住民と徹底的に議論し、
最終的に運転再開の同意が得られた原発だけを運転再開することにすればよい。
 安全確証のない原発を短期間にせよ運転しようとすれば、
手続きと内容の両面でこれくらいの周到さが求められて当然だろう。
 政治(政府、政党、官庁)が、
この二つの合意形成のリーダーシップを取るべきなのだが、
現実はそのようにはまったく動いていない。
政治の主流は、無為無策か無関心である。
それは表向きだけで、事態をわざと放置して
全機運転停止の可能性を高め、電力不足到来の危機を煽って、
安全確証なき運転再開に持ち込もうとしているのかもしれない。
それをさらになしくずしの原発維持・推進に繋げようとする魂胆もあろう。
一か八かの瀬戸際政策である。
 他方で脱原発派の中には、全機運転停止を機に
一気に脱原発が実現されるという期待もある。
しかし、速やかな脱原発には大賛成だが、
全機運転停止に乗っかった即時脱原発は、
性急すぎる。あまりにも準備不足であり、
結局は立ち往生してしまう危険性が高い。

# by hamanatume | 2011-08-27 17:33 | no nukes 

畏友T氏による「原発雑考  9.19さよなら原発集会」

〈さよなら原発1000万人アクション〉の一環として、
9月19日に全国各地で集会とパレード
(私としてはデモと表記してほしいのだが)が行われる。
東京と愛知の場所と時間は、以下のとおりである。

  東京 場所 明治公園(新宿区霞ヶ丘町6)
     時間 13:30〜 〈集会&パレード〉
  愛知 場所 白川公園(名古屋市中区栄2丁目)
     時間 13:30~ 〈集会&パレード〉

 各種の世論調査では回答者の7割以上が将来の脱原発を支持している。
しかしそれが脱原発に直結するわけではない。
 脱原発実現の最善の方法は、政府の決定・議会の同意といったかたちで、
政治が決めることである。
しかし現状でそれに期待することはできない。
 福島第一原発の事故から半年近く経つのに、
将来の原発・エネルギー政策についての本格的な論議が、
政府や主要政党のどこにおいても始まっていない。
その理由の一つは、政治が機能マヒしていて、
本来とりくむべき課題を放置していることにあるが、
それに加えて、いまなお原発の維持・推進を
もくろむ勢力が意図的に問題の先送りを計っているからである。
彼らにとっていまは、この問題を論議するには
あまりにも条件が悪いからである。
 この消極的無作為と意図的無作為に加担する者が
圧倒的多数であるから、
政治の場で将来の原発・エネルギー政策についての論議がほとんどないのである。
この状況が大きく変わらないかぎり、
政治による脱原発の決定など、夢のまた夢である。
 ここは、市民が結集し、集会とデモという、
身をもって行うもっとも直接的で重みのある方法によって、
脱原発の断固とした意思を表示することが重要である。

# by hamanatume | 2011-08-26 17:48 | no nukes 

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